軕の歴史
「車へんに山」で“やま”と読みます。
揖斐祭りを飾る曳き軕の起源は、この地に陣屋を置いて支配していた旗本 岡田将監善諧が、享保5年(1720)1月、幕府の旗本奉行に任命されたのを祝い、各町内が競って造り物をこしらえ、神輿の先へ渡したものと伝えられています。
宵軕(よいやま)
5月4日 20:30ごろ~
夜の子供歌舞伎の終了後、5輌の軕はそれぞれの町内に帰ります。日が落ちた後、多くの提灯に彩られた軕が闇の中で煌々と浮かび上がり、夜の本町を曳かれて行く光景は風情があり見事です。
午後8時半ころには、5輌が1列に並びます。これが「曳きそろえ」と云われています。5輌の軕が縦列に並ぶのは祭例中、この時だけです。各軕が整列すると、それぞれ音色を競うように一斉に打囃子は響きます。賑やかな音曲と、提灯の眩しい灯りに心躍らせ翌日の本楽を迎えます。
夜の子供歌舞伎の終了後、5輌の軕はそれぞれの町内に帰ります。日が落ちた後、多くの提灯に彩られた軕が闇の中で煌々と浮かび上がり、夜の本町を曳かれて行く光景は風情があり見事です。
午後8時半ころには、5輌が1列に並びます。これが「曳きそろえ」と云われています。5輌の軕が縦列に並ぶのは祭例中、この時だけです。各軕が整列すると、それぞれ音色を競うように一斉に打囃子は響きます。賑やかな音曲と、提灯の眩しい灯りに心躍らせ翌日の本楽を迎えます。
各軕の紹介
軕持ちの町内は以下の5町内です。
上 町(かんまち)・・・・高砂軕(たかさごやま)
中 町(なかまち)・・・・住吉軕(すみよしやま)
下 町(しもまち)・・・・鳳凰軕(ほうおうやま)
上新町(かみじんまち)・・龍宮軕(りゅうぐうやま)
下新町(しもじんまち)・・市 軕(いちやま)
上 町(かんまち)・・・・高砂軕(たかさごやま)
中 町(なかまち)・・・・住吉軕(すみよしやま)
下 町(しもまち)・・・・鳳凰軕(ほうおうやま)
上新町(かみじんまち)・・龍宮軕(りゅうぐうやま)
下新町(しもじんまち)・・市 軕(いちやま)
上町 高砂軕
華麗なる軕の中で一際印象的な造形美を誇るこの軕は、社前に5輌並んだ時一層その輝きを増す感じがします。特に屋上に白銀の三日月を頂く発想は他に類がありません。文化11年(1814年)の三輪明神祭り絵巻に亭(ちん)をつけた高砂が描かれています。軕の先導地長浜に軕に亭が造られたのは享保2年(1802年)萬歳桜が始めと記録されています。この年よりわずか12年後に描かれていることから推察すると、文化5、6年頃亭が造られたと思われます。その後改造に改造を重ね、明治35年の大改造を経て今日の華麗なる姿になりました。
見所は、正面唐破風の獅子頭、旭鳥の彫刻(東本願寺仏師前川三四郎作)、柳里恭(りゅうりきょう)(大和郡山柳沢家家老)の四季草花の図、中国明時代の見送り幕(民族資料館蔵)、狭間の「葡萄と栗鼠(りす)」「浪と瀧」の彫刻等です。
見所は、正面唐破風の獅子頭、旭鳥の彫刻(東本願寺仏師前川三四郎作)、柳里恭(りゅうりきょう)(大和郡山柳沢家家老)の四季草花の図、中国明時代の見送り幕(民族資料館蔵)、狭間の「葡萄と栗鼠(りす)」「浪と瀧」の彫刻等です。
中町 住吉軕
中町住吉軕の始まりは享保8年(1723年)に方一間四方の軕を設え、その上に張り子の大きな岩を造り渡したものが始まりと言われています。三輪神社に残る「三輪大神享保渡御之図」(享保12年)に「中町」として「おどりやま」が描写されています。「三輪大神文化渡御之図」には、中町の軕は四輪内輪で舞台を設け背面に「老松」の襖を据え、周囲に勾欄を配し、屋根は向大唐破風(むこうおおからはふ)形式で、奥部は入母屋屋根(千鳥破風)形式のものが描かれ、いわば今日の原型となるものが、文化11年(1814年)ころには存在していました。この軕は嘉永・安政年間(1848~59年)に赤坂東町へ売却され、更に大正11年(1922年)に赤坂東町から養老室町へ売却されました。中町住吉軕は嘉永・安政年間に新たな軕を建造しました。その後明治初年(1868年)、さらに平成19年(2007年)と二度の大改修が施され今日に引き継がれています。狭間の手長足長の彫り物、舞台四本柱の竹林七賢人の飾り金具はこの軕の見所です。
下町 鳳凰軕
享保7年(1722年)下町組は「幅一間、長さ二間」程の車に若者が上がり、木遣りを唄うと古文書に書かれています。その後享保12年(1727年)の「三輪大神享保渡御之図」には下町の「せうせうやま」(猩々(しょうじょう)山)が描写されていますが、当時はまだ屋根の無い車台でした。「三輪大神文化渡御之図」には下町組の軕として四輪内輪で舞台を設け、背面に腰障子を据え、周囲には勾欄を配し、前には向大唐破風(むこうおおからはふ)で奥は千鳥破風の屋根が描かれており、文化11年(1814年)頃には亭(ちん)は無いが、今日の原型のような山が存在していました。現在の鳳凰軕は明治18年(1885年)地元の彫刻師「国枝桂輔」が棟梁となり、2名の大工を配下に制作されたものです。その後3年間白木のまま引き廻され、本塗りは青木勝助等大垣、彦根、名古屋の塗師3名が担当して明治21年(1888年)10月に完成しました。この鳳凰軕は正面から見ると重厚で、側面から見たときは5輌で随一の均整美と言われています。
旧見送り幕(民俗資料館蔵)は過去2回修理をし、平成19年(2007)3月に県及び町・各財団の支援と町内の協賛を受け、見送り幕を復元新調し現在に至ります。見送り幕の画題は「玄宗皇帝・楊貴妃図」と云われています。原本は伝狩野光信筆六曲一双屏風「明王・楊貴妃図」の一部で、画題は中唐の詩人白居易(白楽天)の「長恨歌」(玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋を描いた叙事詩)を絵画化した作品です。
旧見送り幕(民俗資料館蔵)は過去2回修理をし、平成19年(2007)3月に県及び町・各財団の支援と町内の協賛を受け、見送り幕を復元新調し現在に至ります。見送り幕の画題は「玄宗皇帝・楊貴妃図」と云われています。原本は伝狩野光信筆六曲一双屏風「明王・楊貴妃図」の一部で、画題は中唐の詩人白居易(白楽天)の「長恨歌」(玄宗皇帝と楊貴妃との悲恋を描いた叙事詩)を絵画化した作品です。
上新町 龍宮軕
軕倉の棟に「安永四(一七七五)乙未歳(きのとひつじどし)軕出来候」と墨書した棟札が張り付けてあります。それ以前の軕は亭(ちん)も小さく簡素な物で、祭日前に組み立てていました。
この年、領主の岡田善章(よしあきら)公が西之丸御小姓組頭、諸太夫、従五位下と破格の昇進をされました。これを祝って、絢爛豪華な今の様な軕を造り、祭礼当日この軕を見た領主は華麗さを絶賛し、龍宮軕と名付けられました。5輌の軕は同じ形で造られていますが、亭の造形は各々その姿に特色があって見惚れてしまいます。龍宮軕は特に造形美が素晴らしく木組みも一番複雑であると云われています。この龍宮軕も痛みが目立ってきましたので、高山の宮大工の手で全解体修理を実施し、平成28年(2016年)4月元の絢爛豪華な姿に修復されました。
見所は、正面破風の獅子頭、舞台屋根を支える四本柱の彫刻(中国の代表的画題琴棋書画(きんきしょが)の図)、背面見送り彫刻(向かって右は「猿田彦」左は「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」)、見送り幕の綴織(つづれおり)(琴棋書画の図)です。
この年、領主の岡田善章(よしあきら)公が西之丸御小姓組頭、諸太夫、従五位下と破格の昇進をされました。これを祝って、絢爛豪華な今の様な軕を造り、祭礼当日この軕を見た領主は華麗さを絶賛し、龍宮軕と名付けられました。5輌の軕は同じ形で造られていますが、亭の造形は各々その姿に特色があって見惚れてしまいます。龍宮軕は特に造形美が素晴らしく木組みも一番複雑であると云われています。この龍宮軕も痛みが目立ってきましたので、高山の宮大工の手で全解体修理を実施し、平成28年(2016年)4月元の絢爛豪華な姿に修復されました。
見所は、正面破風の獅子頭、舞台屋根を支える四本柱の彫刻(中国の代表的画題琴棋書画(きんきしょが)の図)、背面見送り彫刻(向かって右は「猿田彦」左は「天鈿女命(あめのうずめのみこと)」)、見送り幕の綴織(つづれおり)(琴棋書画の図)です。
下新町 市軕
市軕の前に立ったとき、誰もが大唐破風の飾り金具と4本の柱の飾り金具に目を見張ります。また寄棟の屋根を載せた清楚な亭(ちん)も山の品格を一層高めています。文化11年(1814年)の「三輪大神文化渡御之図」には、現存の舞台部分と同じ大唐破風の屋根とその側面に付けた棟続きの2つの千鳥破風、舞台の勾欄などが描かれています。但し亭は描かれていません。一方幕を入れる箱(現在の幕と同寸)には「幕箱 文政元(一八一八)寅四月 下新町 長浜糸屋」の墨書があります。これらのことから文化11年までには、現在と同程度の大きさで、同じ形の屋根や勾欄を備えた軕が存在していました。亭は上層梅の彫刻の裏の墨書から嘉永3年(1850年)に造られたようです。その後、明治4年(1871年)の名工高橋郡兵衛による修築、明治35年(1902年)の飾り金具の工事、43年(1910年)の見送り幕・見送り画「猛虎」の完成、大正3年(1914年)の横幕の購入と続きました。この市軕も近年傷みが目立ってきましたので、高山の宮大工の手で全解体修理を実施し平成24年(2012年)4月に元の絢爛豪華な姿に修復されました。
出典:「三輪神社奉納軕芸 揖斐まつり」下町組鳳凰軕(平成28年5月)